空回る男と男、ひとつ屋根の下で

 振り出した雨は霧雨になっていた。うらめしいことに、俺が宿屋に着く手前で、勢いがしぼみやがった。
 おんぼろ屋根から止めどなく雨水が滴り落ちてうるさい。ここら辺はさびれていて物静かなためか、余計に音が響く。
 仕事柄、静けさを好む普段の俺ならイラ立ちが募っているところだが、今日は好都合。これだけ外が騒がしければ、俺が宿に帰ってきたとは、中の奴には分かるまい。
 宿屋の主に、俺の帰還を絶対、悟らせるものか。相手に心の準備さえも、させてやらん。
 驟雨が恵んでくれた置き土産に意気揚々として、ドアをいきなり開けてやった。壁も分厚い設計らしいので当然、外からの来客が近づく足音も聞こえなかっただろう。
 来客を知らせるベルも壊れているので、相手の思考に俺の影が掠る猶予さえ与えなかったはずだ。
「ダメだった!」
 戸を開けて開口一番に告げてやる。どうだったか、毎回聞かれるのは苦痛だし、ついたばかりの傷が抉られる。
 だから言い捨てて、部屋へ逃げこもうと走りかけたときだった。
「あのね、正義の方に身を置く君が、悪人を口説いたら、そりゃあ何発当てても無理に決まっているんだよ」
 俺の飛びこみの帰還に、今まで会話していたかのような自然な流れで反応し、クリティカルヒットを叩きこんだだけでなく、顔も上げずに、俺のダメでした報告に、即答できる頭の回転の速さ。
 かぁ〜これだよ。彼はいつだって、的確に俺の傷をつつく。
 俺が帰ってくるタイミングさえ、彼に知られなければこうやって、用意された正論を効果バツグンな状態で叩きこまれるはずはない。そう高をくくっていた。
 崩せる余地があるとすれば、彼のド正論には、細かく言うと誤りがある。
 俺は悪人の掃除屋。たいていは口頭での交渉は決裂するため、武力行使で黙らせ、拘束、身柄を然るべきところへ引き渡す。
 暴力は罪に問われる可能性が高い行為のため、決して正真正銘、正義側の人間というわけではない。
 それに数撃ちゃ当たるとも思っていない。ターゲットは毎回、入念に調べ上げた上で、きちんと吟味している。
 ただ、調べられるのはせいぜい、表面的な個人情報のみなのだ。合いそうだなあとは思っても、俺が恋愛対象として真に知りたいのはそこじゃない。もっと内なる、心の奥底の相性だ。
 やはり俺の考えでは、ぶつかり合うことでしか、相手の内面はのぞけないと思っている。だからこの、身柄を抑えさえすればなんでもやっていい職業を選んだ。
 界隈で名の知れるような成果はないが、近づいたターゲットの懐に入りこむのは、いつもたいてい上手くいく。
 自分でもよく分からないが、だいたいはありがたいことに、相手も初手から数手の接触のうちには、俺のことを気に入ってくれる。我ながら、気に入られやすいことで有名という通り名でいいのではと思えてくる。
 出会いたい、そして結ばれたい、好みの男と。強く思うほどに、願うものを引きつけやすいというのだから、そういう気概で仕事に勤しんでいるのだ。
 誰かが俺のうわさをしている気がする。次なるターゲットが俺を呼んでいるのか?
 鼻がムズムズしてきて、くしゃみをしかけたとき、彼が顔を上げて言う。
「まずはさ、服を着替えてきた方が身のためだよ」
 はい、そうでございますね。驚きの正論でくしゃみは止まりました。
 外は蒸し暑かったが、さすがに雨で冷えた。バケツのような雨をかぶったため、せっかく整えた全身が濡れてみっともない姿になっている。言われなくても、それぐらいのことは分かっている。
 風呂に行く振りをすれば、彼は椅子に座ったまま、読みかけの本に視線を戻してしまう。
 もうなにも言われないと思ってモタついたら、背後から声が飛んできて跳び上がりそうになる。
「服は用意してあるよ、タオルも、お風呂も」
「へーい。どーも」
 本当に用意周到で抜け目がない。彼のそれは、俺が今まさに転ばん先に、ちょうど良すぎるぐらいの着地点がほどよく準備してあるという、なんとも気持ちの落ち着かない気づかいなのだ。
 彼にはほめ言葉を送らないといけないはずなのに、俺が軽口ぐらいしか返せないのは、彼のその妙にタイミングが良すぎる先回りのせいだ。
 浴室に足を踏み入れれば、まったく体が冷やっとしない。風呂も本当にうらめしいぐらい、俺のことを分かった温度にしてあって、浴室も空気が温まっているのだ。
 相手に振られ、冷たい雨に打たれ、心身ともに冷えきっていた俺はものの見事に、ほかほかに回復しきってしまう。
 今日も、いい返事がもらえなくて、流血沙汰のケンカで終わって、仕事として処理したけど、もういいや。
 風呂から上がり、用意してあった衣類に袖を通したが、ボタンを閉めるのが億劫で、はまったところにかけた。
 下までボタンを留め終えないまま、そろえ置かれていたルームシューズに足をつっこみ、浴室から出て、そういや彼にありがとうぐらい言うかとふらふらと談話室に戻れば、彼がこれまた丁度よく俺を出迎える。
「ボタン、掛け違えてる」
 手間取る俺をよそに彼があっという間にすべて掛け直してしまう。
 彼の指先は温くて、緩急つけてのなでるような手つきで、あやされている気分になる。
 なんだか、子どもっぽいな、俺。いや、子ども扱いは困る。
 俺は大人の男として見られたいから、シャツの裾は触れられる前に、自分で突っこんだ。
「それで、今回はなにが原因?」
 傷がぁ。せっかく風呂で和んで水に流したあとだったのに。
 この用意周到に絆してからのストレートな物言いには、毎度毎度、頭を抱えたくなる。
 談話室に席がもう準備してあった。テーブルの上には、湯気がくゆる熱々のチョコレートドリンクとプレーンのスコーンが置いてある。
 宿に入ったときは、菓子を焼いた匂いもしなかったのに。いつ用意していやがったんだ。
 場が整い、テーブルにつくまでのエスコート――いや、いわば餌食のチラつかせだ――も完ぺきだった。これはもう、洗いざらい話せということだ。
 席に着く。まずはチョコレートドリンクを一口、含む。沁みる。俺が熱々のものを好むのを熟知しきっている温度。チョコレートとお湯の練り具合、混ざり具合も丁度いい。
 俺の胃がよろこぶ。胃袋め。完全につかまれやがって。
 向かいの席には、ニコリと笑う彼がいる。憎たらしいほど、清々しい笑みだ。
「相手がそもそも話を聞いてくれませんでした」
「武器と敵意を先に見せたら、それは無理だと思うよ?」
「ちがう。俺は学んだから、なにも持たないで目的地にひとりで向かったし、迷いこんだ一般人をちゃんと装いました」
 泣く泣くスコーンにかじりつく。塩味が強くて美味しい。スコーンを紅茶とクリームとジャムなしで食べても目の仇にされないのが、涙が出るほどうれしいのに。
「相手もプロだよ? 装っても身のこなしでバレると思う」
 彼が打ち返す言葉に、涙が出るほど心が痛む。
 慰めにと、やけになって甘いホットドリンクとともに、スコーンを飲み干す。叶うなら噛みしめて味わいたかった。
 だが、彼のカウンターパンチに負けたくはないのだ。それでいて、出された食事を無下にもしたくない。
 スコーンを手に取り、塩味を一瞬感じたのち、ドリンクで流しこむ。彼との会話にもあれやこれやと言い分を返す。
 だって、今日の相手は、俺の正体に勘づくなり、異常に怯え出して、話どころの騒ぎじゃなかったんだってば。
 俺たちの言い合いは、まるで落ち着いた会話のようなテンポで交わされる。
 なにせかんしゃくを起こすのは子どものやることだから、声は極力荒らげない。俺は子どもっぽく見られたくないから、上品に大人っぽくふるまうと決めている。
 だから傍から見れば、俺たちは食事をしながらつつましく談話をしている、和やかな雰囲気に見えるだろう。
 だがそんな空気感とは裏腹に、空いた胃が満足していくほどに、俺の別の胃が重くなっていく、そんな気がしていた。
 その日はそのあとも来客がなかったので、誰も俺たちのつつましく見えるであろうやり取りを知らない。
 そもそも俺と彼以外の人をこの宿で見かけたことがなかったような。
 どうでもいいだろう。明かりを絞る。余計なことは考えるな。今は至高のふかふかタイムだ。布団が暖かいのになんて失礼な思考だろうか。
 細長いふわふわにしがみつく。この子はどうにかしていつもは隠してある、夜のおともの一人だ。
 明かりの乏しい夜、周りを固めるのは、彼に内緒にしている、もふもふの住人たちである。
 腹に匿いながら連れてきた彼ら。彼らを連れこむ日はいつも、外で食べてきたと食事を断り、ひもじい思いをしながらベッドに潜りこんでいたが、今では欠かせない友だ。
 暗いところで夜、ひとりで寝るのが怖いなどとは口が裂けても言えないので、彼らは心強い相棒である。
 とろんとまぶたが落ちてくる。そうだ、そうだ。ふかふかで寝心地がいい布団と寝る友に包まれたなら、早く眠ってしまうに限る。
 物音に敏い俺を一度も起こしたことのない、宿の静けさに包まれながら、俺は眠りに落ちた。

(後略)