レイニーブルー・ノクターン

 春の日の雨だった。
 まだ肌寒いような、それでいて少しぬるいような不思議な空気をまとっていた。昼過ぎから雨が降ってきたこともあり、朝はいなかったはずの送迎車が中学校の前に列を成していた。六條常葉(ろくじょう ときわ)がそれを横目に見ていると、端末が震えた。
『今から迎えに行ったるから、校舎出たとこで待っとって』
 家同士が親しいだけの八つ上の男――八坂志々雄(やさかししお)からの連絡だった。別にいいのに、と思ったが、今日に限って傘を忘れたまま家を出たことを思い出して『わかった』とそっけなくメッセージを返した。のろのろと帰り支度をして、静かになった教室を出る。日ごろ外で活動している部活は軒並み中止になったようで、いつもより少し静かだった。
 靴を履き替えて校舎を出ると、男はすでに待っていた。
「不審者に見えるよ」
「あほ言うな。ボクかてここの卒業生やで。OB拒む学校がどこにあんねん」
 両親の影響で関西の言葉を話す彼は「ほれ」と言ってビニール傘を開いた。その中に常葉は遠慮がちに入った。八坂と並んで歩くことに対して、妙な緊張感があり、常葉はかばんをぎゅっと胸に抱いた。
「佐都子(さとこ)ちゃんは?」
 八坂の妹の名前を出す。高校三年生だという彼女を予備校にも送迎しているらしいというのは何となく知っていた。
「今日はおらん」
「ふうん」
「おってほしかった?」
 八坂の問いかけに常葉は何も答えなかった。是と答えても否と答えてもからかいの種にされるのは目に見えている。
「志々雄さん、今日、大学は?」
「中抜け。自分を家まで送ったら戻る」
 免許を取得して以来、車の運転が楽しくてしょうがない、という八坂は国産のSUVを乗り回している。周囲にはセダン型の高級車が多数停まっている中で、彼の車はやや浮いていた。
「ほれ、乗り」
 わざわざ後部座席にエスコートしてくれたが、常葉はそれを断って助手席に乗り込んだ。隣を歩くのは緊張するが、助手席に乗るのは好きだった。
 車の中は、いつもと同じようにラジオがかかっていた。常葉自身はあまりラジオは好きではなかったが、オーディオの操作権利は車の持ち主にあるため文句を言ったことはなかった。
「学校、どない?」
「まだ入学から一か月も経ってないよ」
「それもそやな」
 そんくらいしか話題振れるもんがないねん、と言う志々雄にどうしようもなく年の差を思い知らされる。常葉は膝の上に抱えた通学かばんをぎゅっと抱きしめてそのまま黙って外を見ていた。そのまま十五分ほど走れば常葉の家――というよりは屋敷と呼ぶ方が相応しい大きさだ――に着く。常葉を車に乗せたときと同じように八坂はエスコートをした。上がっていけば、と常葉は声をかけたが、八坂は首を横に振った。
「また今度にするわ。今日はもう戻らなあかん」
「……そう」
「そんな顔しなや」
 自分はどんな顔をしているのだろうか、と常葉は思って訊きかけたが、その前に八坂が強引に常葉の頭を撫でた。当時すでに成人していた八坂は一九〇㎝近い長身の持ち主だったが、中学生になったばかりの常葉は小柄で一五〇㎝程度だった。上から強い力で撫でられては抵抗できない。
「またいつでも迎えに行ったる」
「無理しなくていい」
「ったく、可愛げないガキやな」
 しかし八坂は口調とは裏腹に優しい顔をしていた。じゃあな、と軽く手を上げて車に乗りこんだ。再び走り出した車が角を曲がるまで常葉は家の門から見送っていた。
 玄関の引き戸を開けて家に入れば、すでに帰宅していた双子の弟・真尋(まひろ)の靴が目に入る。自分の人生は自分で決めます、と言って常葉と同じ私立校ではなく、地元の公立校を選んだ真尋のことを常葉は少しだけまぶしく思っていた。
興した会社を継がせる候補は多い方がいい、と思っていたらしい彼らの父親は露骨に落胆した姿を見せていたが、それは二人のどちらに対しても失礼な態度だと常葉は思っていた。なにより血族に会社の後を継がせようとすること自体が古い考えだ。優秀な人間ならばいくらでもいるだろう。
「おかえり」
 タオル使う? と言って真尋が玄関までやってきた。すでに彼自身も濡れながら帰宅した後のようで髪がまた乾ききっていなかった。
「ありがとう。でも濡れていないから大丈夫」
「ああ、誰か迎えに来てくれたんだ」
「うん」
 真尋はただ淡々と事実を口にし、感情を一切含まなかった。屋敷と呼べるほど巨大な家には彼らの父が雇った使用人が出入りしていたが、人数まで把握していなかった。
「志々雄さんが迎えに来てくれた」
「そっか。それはよかったね」
 常葉の返答を真尋はにこやかに肯定した。肯定してもらえたことが嬉しかった。
「レイ子さんがココア入れてくれるって言ってたから、手を洗ったらおいでよ」
 レイ子さん、というのは家事全般を預かっている老女だ。彼らの母は彼らがまだ幼かったころに鬼籍に入ったため、彼女が母代わりだった。帰ったら挨拶をして手を洗うことをしつけたのも彼女だ。
「うん、ありがとう」
 常葉はうなずいて靴を脱いで家の中に入った。玄関には水滴がついた白いスニーカーと汚れ一つない茶色のローファーが並んでいた。

 春雷が鳴っていた日だった。
 高校の卒業式だというのに暴風雨と雷にさらされて散々だ、と言いながら、胸に桜のリボンをつけた友人たちとそれぞれ帰路についた。今日も常葉の迎えは八坂だった。博士課程まで進んだ八坂は比較的日中の時間の自由が利くため、まだこうして常葉と会うことがあった。
「おーお疲れさん、そんでおめでとさん」
「ありがとう」
「どっか寄ってから帰ろか?」
 言われて、一瞬迷った。同級生と教員を含めた謝恩会も、友人たちとの小規模な集まりも後日やることが決まっていた。そのため、今日は真っ直ぐ帰ってもよかったが、
「目的地はないけど、しばらく車に乗せてほしい……だめ?」
「ええけど、この雨風ん中で景色見て、おもんないて言うのはなしやで」
「言わない」
 ただ八坂と一緒にいる時間をのばしたいだけで、景色はどうでもよかった。乗り込んだ車の中はいつもの通りラジオがかかっていた。
 テキトーに走らすで、と言って八坂はシフトレバーをドライブに入れる。八年前から変わらない車に「買い換えないの」と常葉は訊ねた。
「院生は金ないねん。維持費だけで精いっぱいや。働かざる者車買うべからず、ってな」
 だが、八坂が本当に必要だと言えば八坂の実家は彼に出資するだけの懐を持っている。単純にこの車が気に入っているのだろうと常葉は思った。
 車は豪雨の中、低速で走った。ワイパーは何度もせわしなく往復するが、それでも視界は悪い。だが、そんな日だからこそ車は少なく、道路自体は快適な空き具合だった。志々雄はいつもの様に軽快にしゃべった。
「え、ボクが高校卒業したんもう八年も前? そんでボク、八年も大学おんの? 長居しよるなあ」
「志々雄さんは本当に長居だって思ってるの?」
 苦笑するように言う八坂に訊ねると、彼は首を横に振った。
「いや、全然。必要なことやと思ってんで。人間関係でえらいことはあっても、夢あるからな。ボクの開発した薬で誰かが救えたら嬉しいやん」
 薬学部に進学した八坂が研究のことを語るときは少年のように目を輝かせる。常葉はその顔が好きだった。それ以降も取り留めもない話を続けながら一時間ほど八坂は車を走らせた。最後にバイパス沿いにあるコンビニに車を停めた八坂は「何かほしいもんある?」と訊ねた。
「……」
「? 常葉くん?」
 不思議そうに常葉を見つめた八坂を常葉も見つめ返す。以前は四〇㎝もあった身長差は半分ほどになっていた。座っているためにその差はさらに縮まっている。
「どないした?」
 心配そうな顔をしている八坂に、常葉はぎゅっと膝の上で拳を握った。

 

(後略)