朝露を掬って

 高校生時代、クラスメイトだった<ruby>平和若葉<rp>(</rp><rt>ひらかずわかば</rt><rp>)</rp></ruby>という青年は、クラスにおいていわゆる大人しい内気な生徒という立ち位置を確立していた。
 全校生徒、二百七十名。
 一クラスあたり三十名程度。
 公立高校における全国の平均生徒数が六百八十程度と言われていることから考えるに世間的な格付けで言えば小規模と呼んで差し支えない程の環境だったとはいえ、それだけの人間が揃えば一人ぐらいは気の合う人間が居そうなものだけれど、彼が友人と思しき誰かと会話をしているところを俺は見たことがなかった。
 それじゃあ彼は何をして高校三年間を過ごしていたのかと思い返してみると、いつも自分の席で勉強か読書をしている姿ばかりが記憶に残っている。
 そんな中で俺だけは彼の友人だった――なんて、そんな物語の冒頭とか引きとか、そういうキャラ付けのようなものは一切なく、俺もまた彼と殆ど話したことのないクラスメイトの一人であった。なんなら平和若葉なんていう人間のことをついほんの数秒前まですっかり忘れていたぐらいである。
 高校時代の彼が大人しく内気な生徒であったのなら、一方の俺、<ruby>七星<rp>(</rp><rt>ななほし</rt><rp>)</rp></ruby> <ruby>臨<rp>(</rp><rt>のぞむ</rt><rp>)</rp></ruby>はといえば、ヤンキーとまで言われる自覚はなかったにせよ髪はしっかり明るめの茶髪に染めていたし、校舎裏で友人たちと一緒に実家の商店からこっそり持ち出した煙草を蒸したりしていたし、少なくとも優良生徒とは程遠い立場にいた。
 彼と共に過ごしたのは高校三年間だけだった上、その間彼との会話は宿題やら提出物やらについて一度か二度話したか程度のもので、「学生の本分は勉強」を体現するかのように高校三年間教室にいる間ずっと勉強をしていた彼はついぞ他の生徒とクラスメイトらしい交流をすることなく、高校卒業と共に東京の大学へ通うため家族と共に地元を去っていった。
 それほどまでに俺達の間に接点と言える接点はなく、仮にどこかで思い出したとしても、酔った勢いで高校時代のアルバムをひっくり返して集合写真を見た時に、そういやこんなやつが居たな、と呟くぐらいのものだっただろう。
 ではなぜ、今更そんな影の薄いクラスメイトのことを思い出しているのかというと。
「キャビンください」
 高校を卒業してから凡そ十数年。
 当時の面影を多少なりとも残したまま大人になった彼が、親が経営している小ぢんまりとした商店で俺が店番をしている時に、レジへやってきてそう言ったからである。
 そもそも事の発端は、彼が指定した煙草の銘柄だった。
 普段ならば客が何を買うか、どんな人間か、なんてそこまで深く気になりはしないのだけれど、うちの店に来る客の統計的に、その銘柄をキャビンと呼んで指定するのは殆どが中年以上の男性客だ。
 というかそもそもキャビンという銘柄の煙草は平成二十七年頃にウィンストンという別の銘柄に統合されていて現在の正式名称はウィンストン・キャビン。にも関わらず変更前の銘柄名で呼ぶのは多くがまだ名前が「キャビン」だった頃から煙草に馴染みのある人ぐらいなもので……まあ簡潔に言ってしまえば、若者がその名前を口にするのは珍しい状況だった。
 だから俺は、若そうなのに珍しいな、というほんの少しの好奇心に駆られて、その注文をした彼の顔をちらりと盗み見て、その結果相手が、十数年前に別れたきり当時も殆ど話すことなく、現在までただの一度も連絡も取り合うことのなかった、元クラスメイトの平和若葉だった、というのが経緯だ。
「……平和?」
 学生時代に数回呼んだか呼んでないかぐらいのその名前を口にすると、ずっと俯いて睫毛を伏せていた彼は驚いたように目をまん丸くして、レジにいる俺の顔を見た。
「七星、くん?」
 彼の口から自分の名前が飛び出してきたことにも驚いたけれどそれよりも、夏の青空のように透き通ったその瞳に、俺は一寸呼吸を忘れる。
 適当にその辺の店で買ったTシャツと短パンに、大して手入れもしていないサンダルを引っ掛けて寝起きの髪を軽く手ぐしで整えた程度の俺とは対照的に彼は、艶のある黒髪をセンターパートにして色素の薄い儚げな瞳を惜しげもなく晒し、日焼け知らずの白い肌に涼し気なシャツを羽織って、すらりと細い黒のスラックスを履きこなしていた。
 その姿はまさに洗練された都会の男という感じで、つい言葉を失って見惚れてしまう。
 ほんの数秒ほどの沈黙の間に、開け放った窓と入口を通り抜けた夏の風が彼の髪をふわりと舞い上げて――煩わしそうに目を細めながらその髪を指先で押さえる仕草さえも一つの芸術品のようだった。
「……えっと?」
 つい二の句も紡がないまま目の前に広がった景色に息を呑んでいたら、彼は不審そうに眉を顰めて首を傾げる。そこでようやく意識が戻ってきた俺は慌てて後ろの棚から赤い煙草の箱を取ってカウンターに置いた。
「わ、悪い。ちょっとぼーっとしてた。……その、久しぶりだな。こっち帰省してきたのか?」
 せっかく会ったのだから世間話ぐらいは、と思いそう尋ねてみたけれど思ったほど会話は盛り上がらず、彼はふいと視線を逸らして、ああ、まあ、と曖昧な返事を零す。
 それ以降今度は彼が押し黙ってしまってチグハグな俺達の会話を嘲笑うように少し遠くで蝉の鳴き声が響いた。
 もしここで彼が何か明確な返事をしてくれたのであれば、今何をしているのかとか、どうして帰ってきたのかとか、そういう当たり障りのない世間話をラリーすることは出来たのかもしれないけれど、目を背けるようなその様子を前に、彼に対して何かを訊ねるのはなんだか酷なことのように思えて口を噤む。
 そうして訪れた二度目の沈黙に一体どうしたものかと内心頭を抱えていたら彼は、はい、とだけ小さく零してカウンターの上にあったカルトンに五百円玉一枚と十円玉四枚を乗せ、ちらりと俺の顔を見上げた。
「あ、ああ。さんきゅ」
「うん。……えっと、じゃあ」
 ぺこりと小さく会釈をした彼はカウンターの上に置いてあった煙草の箱を手にそそくさと店を出ていく。その背中を見送りながら、そういえば高校時代も彼の背中ばかりを見ていた気がする、なんてぼんやり考えた。
(――綺麗、だった)
 つい、そんなことを思う。
 それが都会への憧れなのか、彼本人への憧れなのか、はたまた都会を生きる人の生活スタイルへの憧れなのかはわからないけれど、俺はただ余韻を噛みしめるようにして彼が出ていった商店の入口をぼうっと眺めた。
「今の、平和さんとこの子じゃない? ……若葉くんだったかな」
 いつの間に帰ってきたのか仕入れから戻ってきたらしい母親が裏から顔を出しながらそう言う。
「よく覚えてんな、母さん」
「あの子のお母さんとはよく町内会で話してたからね。今もたまに連絡取り合ってるわよ。母子家庭同士、助け合えることもあったし」
 どうやら、ただのクラスメイトでしかなかった俺達とは違い、母同士はそれなりのコミュニティを形成していたようである。ママ友コミュニティというのは子供が思っているよりも案外大事なものであるらしい。
「なあ。あいつ、なんでこっち帰ってきたか聞いてる? っていうか家族で引っ越してったし、実家はあっちにあるんだよな?」
「さあ、そこまでは。大体あんたもあの子ももう二十九でしょ。学生じゃないんだからそこまで把握してる親のほうが少ないんじゃない?」
「そういうもんか」
「そういうもんよ。っていうかあんた同級生でしょ、気になるなら自分で聞きなさいよ」
 それに関してはご尤もである。
「そんなことより仕入れた商品運んでよ。ビールのケースがわんさかあるの」
「はいはい。息子遣いの荒いお母様だこと」
「あら。今すぐ親元を離れて自立したいって言うなら止めないわよ。その代わり家賃も自分で払わないといけないし、ご飯だって黙ってても出てこないんだからね」
「誠心誠意お手伝いさせて頂きますお母様」
「わかればよし」
 かかか、と楽しそうに笑う母に見送られて店の裏へ回った俺は、裏口の近くに止めてあった軽トラの荷台から段ボールをえっさほいさと運び出す。
 そうしている内にいつの間にか日は傾いて、高校時代の旧友と再会した以外は概ね普段と変わらない営業を終えた。
「臨。風呂洗って沸かしといてくれない? その間に母さん、ご飯作っちゃうから」
 帰宅後(といっても商店と実家は繋がっているので、扉を一つ通るだけで到着するのだけれど)、お母様から命を受けた俺は口答えすることなくさっさと風呂場に向かい、シャワーのノブを捻る。
 そうして風呂場用のスポンジと洗剤を手にお湯が排出されるのを今か今かと待っていたけれど一向にその時は訪れなくて、今度は俺が首を捻る番だった。一旦スポンジと洗剤をその場においてサンダルを引っ掛け、家の裏手にあるボイラーの様子を見に行くと、通常であれば何かしら音がしているはずのボイラーはうんともすんとも鳴っていない。
「あれ?」
 首を傾げていると家の窓からふいと母が顔を出した。
「どうしたの?」
「ボイラー壊れたっぽい。お湯出ない」
「え、本当?」
「ってか母さん、ガスコンロつく?」
 ハッとしたように母が家の中に戻っていき、何度か向こう側から火をつけようとする音が聞こえる。
 数秒の後、諦めたような表情で母が再び窓から顔を出した。
「だめだ、つかないわ」
「ガス止まってるっぽいな。業者呼んだほうがいいかも」
「そうね……。しゃーない、じゃあ母さん、お風呂ついでに友達とご飯行ってこようかしら。あんたも適当にやっといてくれる?」
「あいあいー」
 ということでその日の夜は母と俺、各々自由行動になったわけだが。
「……腹減ったな」
 とりあえず近場の銭湯で風呂を済ませて帰ってくる頃には時刻は十九時を回ってしまった。
 最寄りの飲食店に行くには車で十五分かかるし、っていうか何ならもう閉まってるし、折角なら隣町にでも出ようかとTシャツ短パンのままサンダルを引っ掛けて家を出た俺はふと、商店の前に人影があるのを見つける。その影はつい昼間も見たばかりの旧友のもので。
「もう閉まってるけど」
 何を思うでもなく近付いて話しかけた俺に彼、平和はハッとしたように肩を揺らして俺の顔を見た。
「なんか買い物?」
「う、うん。晩ごはんを買おうと思ったんだけど」
「ああ。この辺だと、うちぐらいしかないもんな、食い物売ってる店。でも悪い、閉店十八時なんだ」
「そ……そっか」
 昼間に買っておけばよかったな、と小さく零した彼はがくりと肩を落とす。
「なあ、俺これから隣町に飯食いに行くけど。一緒に来る?」
「あ……」
 学生時代の関係を考えるに即答で断りを入れられても文句は言えないほど突拍子のない誘いだったけれど、彼は俺の誘いに数秒悩んだような様子を見せた後、意外にも小さくこくりと頷いた。