梅雨入り宣言を待たずに、東京は雨の日が続く。
四月の終わり頃から突き抜ける猛暑に見舞われ、ようやく半袖だけの生活に慣れたところだった。今は身震いするほどの冷たい降雨に辺り一面が覆われている。通学で往復を繰り返す日々の情景には、誰にぶつけるでもない微かな苛立ちが紛れ込んでいた。背を縮めてのろのろ歩いている間に、ガードレールの向こうから次々に追い抜かれていく。道には丸く浮かんだ傘の色が溢れていた。
キャンパスの構内から学生がぱらぱらと出てくる。授業が終わったのか、数人が束になって正面のロータリーまで歩くと、ひとりがその群れから離れた。プログラミングされたルートを進むように、歩幅は正確かつ迷いがない。大学の正門を出て七歩のところで、彼はいつも通り、さしていた傘を畳んだ。
大股で後ろから歩み寄る。傘をささない彼を歩道の壁際へ追いやるように脇に飛び出して、自分が使っている傘をさし出した。
男物の長傘の中でも布地が広い方で、極端に近づかなくてもふたりが入るほどの余裕がある。頭上の雨を被らなくなったのに彼は瞬時に気づき、愛嬌のある顔でぱっと微笑んだ。
「また、偶然。いつもご親切にありがとう」
そう言って急に立ち止まり、目当をつけてぴったりと俺の方へお辞儀した。屈むとさらさらの猫っ毛がフードからあふれて真下へ垂れる。見えていないはずの相手にこちらも軽く会釈すると、傾いた傘の背から雨が滑ってばらばらと落ちた。
「バス、すぐ来るといいな」
にこにこしたままの彼が出した声が少し震えている。雨の時間が長いから外気はすっかり冷え切っていて、春先に羽織っていたような俄かの防寒着では間に合わないくらいだった。今日こそ足先の感覚が無くなる前に停留所へバスが来ればいいが、ここの路線バスは定刻に発着したためしがない。
正門を出て傘を閉じたのには彼なりの理由があった。それははじめに傘をさし出した日にもう聞いていて、キャンパスの外周沿いにバス停まで向かう道、歩道が狭いから傘があると対向の人とうまくすれ違えないらしい。雨予報の日にはアウトドア用の撥水ウエアを着ているから、その数分間はフードを被っていれば難なく凌げるだろう、と。
「このリュックも防水だし、いつも完全装備なんだ」
そんなふうに、彼からすれば見ず知らずの相手に話しかけては微笑する横顔が、降雨に晒されているせいでひどく無防備に映る。
傘を持つ手を突き出して曇天の中にある微かな光を遮ると、リュックを前に抱えていたひとは、目を細めて翳った空を仰ぎ見た。頭上で雨音がぱつんぱつんと小さく弾けるのを聞いて、つられるように小さく鼻歌を始める。
「まあでも、濡れてもいいくらいには好きなんだよね、この季節の雨は」
口調に合わせて軽やかになる足音が、ところどころに水溜まりを作ったアスファルトを抜けていく。踏めば靴底の痕がひたひたと残り、しかしそれも止め処なく降り続ける滴であっという間に掻き消えてしまうのだ。
姫宮尚宏というひとに出会ったのは、副科の技能試験でのことだった。
進学した音楽学部では、演奏家を志望しているとはいえ、大学の課程だから音楽理論もやるし、専攻以外の学科で講義やレッスンも受ける。管楽器の学生はたいてい副科にピアノかヴァイオリンを選び、大人数の受講者に紛れて適当にやり過ごせばいいのだが、専攻がピアノだった俺は、入学したばかりにその決断を迫られ、それまで通りの浅考によって副科にフルートを選んだ。芽が出なかった母の趣味で購入された安物のフルートが一本、家に転がっているのを思い出したからだった。
中学の時にも、その楽器を借りて半年間だけ吹奏楽部でフルートをやっていた。運指の機構や息の使い方くらいは憶えているが、演奏にセンスが伴うのは別の話だ。そもそも当時は吹奏楽用のトレーニングブックでしか基礎練習をしていなくて、ソルフェージュはおろか、オーディションの定番であるオーケストラスタディにも触れたことがない。
場当たりで受けることになった技能試験では、課題曲からブラームスのソナタを選んだ。理由は単純で、以前にピアノでこのソロ曲の伴奏をしたことがあるから。高校二年の夏、ソロコンの手伝い役で散々弾いた譜面は、主旋律も楽譜を見ずにほとんど吹くことができた。
キーの動きが悪いところに油をさしてごまかしながら使った母のフルートは、穴を塞ぐタンポが古くなっていて、今すぐにでも交換しなくてはいけないくらいの有様だったが、三万円ほどするリペアの費用を出し渋ってそのまま試験に挑んだ。
会場には疎らに客が入っている。もちろん、副科の履修生を応援に来ているというわけではない。フルート科の学生が面白半分にその出来を見物にきているのだ。自分たちとは到底才能も努力も追いつかない副科の連中を〝面白い〟と冷やかすなど結構な趣味だと思うが、これが音校、つまり音楽学部の伝統的スタイルなのだから仕方ない。
試験官は既に下手に毛が生えたような何とも言えない演奏を聞かされ続けているせいで、眉間に深い皺を寄せている。
大学への道のりで寄ったコンビニでコピーしたばかりの楽譜をぺらっと譜面台へ置き、学科と学年、名前を告げてその変ホ長調曲を吹いた。
とはいえ、ここ数日に限って何とか及第点を取るために練習した曲だ。楽譜を読んで考えるより先に指が動くようになっていたし、歌口にどう息を当てれば響きのいい音が出るかは感覚で理解していた。相変わらずキーの不調で開閉のたびにぱかぱかと滑稽な音が鳴る。音の長短や強弱はもっと忠実にやりたかったが、息がもたなくてブレスしたり、吹き始めを外したりした。音楽をやっているのに歌うと音痴なひとの気持ちが少し分かった気がする。つまりは、専攻科以外の試験時間は、ただ苦痛でしかない。
演奏を終え、プリント一枚の楽譜を持って降壇した。ぱらぱらと順番待ちの受験者から拍手が送られる。終わればただ自分の音の拙さにいたたまれなくなった。
後ろの席に引っ込んでそそくさと楽器を片付けていると、前方の座席から会話がこちらの耳に入ってきた。ひとりが「速いソナタだったね」とわりとはっきりした声を出している。
「でも、それ以外はとても上手だった。すごく耳がいい人なのかな、音が明るくて、発音も良かったよね」
隣の席にいる、彼の同期らしき男子学生が「ナオ静かに、まだ試験中」と耳打ちしている。
「え、でも今は誰もステージに上がってないでしょう? 先生、どんな評価つけるのかな。試しにちょっとうちの科にこない? とか。はは、本当に言いそう、あのひと」
ひとりで愉しげに話をしているひとは切り揃えた襟足をかきながらのんびりと座席に寄りかかっている。このまま物音を立てずに退出するかを一瞬迷ったが、酷い演奏に自棄になっていたのか、その時は楽器ケースのバックルをわざとばちんと音を当てて開けた。
途端に前方の青年はぱっとこちらへ振り返った。座席の前でしゃがんでいる俺よりも少し上の、何もないところに視線を置いている。
「もしかして、あなた、さっきの?」
すかさず隣の同期が「七時の向き」と告げた。そしてその通りに目線がこちらへ向かう。しかしその焦点が合うことはなかった。にこやかな声を向けたひとは、俺ではない遠くの何かに話しかけるように、今の演奏は上手だと今しがたのお喋りを繰り返す。
「すごく良かったね。副科でかわいい演奏はたくさん聞くけど、こんなに上手かったのはあなたが初めて」
おそらく音大生のほとんどが必ず推し量る、この人はどのくらい社交辞令を混ぜて話しているのだろうという距離感を考えて、「ありがとうございます」とやや後退りの答えを出した。
まっすぐ並んだ睫毛に飾られた双眸は、奇妙に交差しているような視点を保っている。軽い斜視は特徴のひとつなのだろう、俺に向けられる笑顔でこのひとは目が見えないのだと分かった。
音楽の世界ではままある話だ。見えない方が著しく聴覚が長けている場合も少なくなく、寧ろ天職などと言われることもある。昔から好んで聞いているピアニストにも盲目のひとがいた。眼前の青年もその演奏家と同じように、内にある自身の才能を見出してここにいるのだろう。
「僕はフルート科の姫宮尚宏といいます。みんなナオって呼ぶんだけど、タカヒロが正解だよ」
差し出された手は今度は正確に俺の方へ向けられた。まるでさっきの一言で居所を完全に把握されたような動きにたじろぎながら、おずおずと手のひらを重ねる。
「ピアノ科1年、不動……」
「不動馨くんでしょ、さっき聞いてた。今度はそっちのコンサートに行くよ。授業は忙しい? いつもご飯は〝パレス〟で食べる?」
傍にいた同期が、まだお喋りを続けるのかというふうに姫宮さんの脇を小突いた。それで体が軽く揺さぶられているはずなのに、何も言わずに俺が頷いたのを、繋いだままの手から拾ったらしい。忠告を無視した青年は、後ろに向き直ったまま「僕も」とだけ囁いて、ぱっと手を放した。
楽器をしまって即座に退室するつもりだった副科の技能試験を、結局最後まで聞いてしまった。姫宮さんはひとりひとりの演奏に新鮮な反応をしては、一生懸命に拍手を送っていた。本業ではないからと惰性で演奏している者や、捨て鉢になって楽譜を途中で落として完奏しなかった者にまで、空間を埋めるようにぱちぱちと律儀に手を打っていた。
確か、規則的に並べられた丹念な拍手が、彼から出る怒りに聞こえたからかもしれない。
俺はその時に、姫宮さんの感情の矛先が自分に向けられていなかったことを、無性に悔しいと思った。それが始まりだった。
(後略)