なんて些細で、ざっくりとした

自分の体とシーツの匂いが同じになってきた。
 逆か。シーツに自分の体臭が染みつきはじめたのだ。最早これではおれが布団なのか、布団がおれなのか分かったものじゃない。それくらい、おれはこのベッドで日々を過ごしていた。かれこれ十日ほどになるだろう。最近、時間の感覚があまりない。だが唯一、これだけははっきりしている。婚約者に逃げられて二週間になる、ということだけは。

 二週間前、婚約者に逃げられた。
 式場へ見学に行く、二日前のことだった。
 既読にならないトークアプリだけならいつものことだ、と流していたが電話がつながらなくなって不安が心に浮かび上がった。とは言っても、この時点では事故や事件に巻き込まれたのではないか、という類の不安だが。
 仕事終わりに慌てて彼女の家に行くも不在。合鍵を使って部屋に入ると彼女がいないだけで、部屋は最後に来た時と何ら変わっていない。そのことが逆に恐怖を煽った。
 只事ではない──慌てて予定をキャンセルし、義両親となるはずだった彼女の両親に事情を伝えた。連絡が遅くなったことを、もちろん謝罪してから。彼女の両親は事態を重く受け止め、方々へ行動を開始した。どうか早く、無事に見つかりますように。
 しかし、その祈りはあっさりと、まったく異なる形で叶うことになる。
 娘のことは死んだものと思って欲しい、と義父になるはずだった人から言われた。
 意味が解らなかった。
 そして翌々日に彼女の実家から現金書留が送られてきた。その翌日も、更に翌日も。送られてきた金額は、俺の年収の大体三分の一ほどになり、それは婚約破棄された際の慰謝料の相場ほどの金額らしかった。どの書留にも手紙が入っていた、彼女の母親からのものだった。
おれは彼女に会いたかった。
会って、一言、二言聞いて、何かを言いたかった。その何かは気の利いたことではないかも知れないけど、それでも会って話せば変わるんじゃないかと思って、だけど、それが叶うことはなかった。
彼女の両親は、彼女が今どこで何をしているか決して言わず、ただ頭を下げるのみ。司法に頼ろうとしても、どう頼るかという部分で壁にぶつかる。家族は彼女が生きていることを知っているし、どこにいるかも分かっている。失踪した訳ではないので事件性はない、それどころかおれがストーカー扱いされかねない。
八方塞がりとはまさにこのことだ。
おれは突然の日常の崩壊に体調のバランスを崩した。ひとまずひと月を期限に休職をし、現在は四六時中布団に転がっている。
最近自分とシーツの匂いが同じになってきた。
 そんな風に思考を循環させているとインターホンが鳴る。こんな平日(だと思う、確証はない)に一体誰が、とベッドから這いずり出てモニターの前に立つ。今日の今日まで一切誰も訪ねてこなかったのに、集金か、セールスかと思い画面を覗けば予想外の人物がそこにはいた。

「こんにちは、タークイーツです」
「……頼んでないです」
「でも買っちゃったから。中入っていい?」
「……部屋、汚いけど」
 いいよ、という言葉は飲み込んだ。別に言わなくても伝わる仲だ。
 玄関先で「タークイーツ」と名乗った男はお邪魔します、と呟いて靴を脱ぐ。スーツに薄手のコートを羽織って、黒いリュックサックを背負っている。手にはビニール袋、底は四角く広がっていた。
 この男は卓井という。つまりタークイーツは名字そのままである。卓井とおれは同期だ。第二新卒の中途採用で入社したおれ、院卒でプロパー入社のこいつは待遇こそ微妙に違うものの同じ部署に配属され、切磋琢磨し時に協力しつつ友好を深めていった。恐らく今いちばん仲の良い同性だろう。
 卓井とは、卓井によると三週間ぶりの再会である。
「俺が短めの出張、長めの出張、振替休日、有給って全部終わらしてきて、久し振りに出社したらお前が休職したこと知って定時に上がって今ここです。大丈夫?」
「え、もう定時過ぎてんの」
「そこに驚くのか。相当キてんね。飯は? 食ってないだろどうせ」
 ん、と卓井はおれの前にビニール袋を差し出す。中身を見て、やっぱり、と思った。中には惣菜弁当がふたつ、積まれて入っていた。
「片方が生姜焼きで、片方が豚肉の黒酢あんかけ。毎山ならどっちも好きでしょ、どっちがいい?」
「……、……食欲ない」
「そっか。じゃあしゃあない」
 実際、食欲はないのだ。彼女と会えないことが分かった日から、何も喉を通らない。辛うじて水分と、最低限のエネルギーはとっているが日中転がって過ごしているおれにはしっかりした栄養は要らないらしい。ちゃんとした固形の食べ物を見ると、少し胸がむかむかするくらいには食欲がないのだ。
 まさか今日卓井が来ると思わなかったので、無駄な出費をさせてしまったと嫌悪に陥る。いや卓井も卓井なんだけど、事前に連絡してこいよという話なんだけど、それでも折角買ってきてくれたのに申し訳ない──。
「俺がふたつ食べるわ、ここで食べてっていい?」
「こんな汚い部屋で?」
「掃除したあとに一緒にゴミ捨てられるし。でも言うほど汚くないよ。お前は臭いけど」
「う、」
 確かに最近風呂に入る気力がないため入っていない。だって誰とも会わないし、お前さえ来なければ誰も気にしなかったのに。諸々落ち込んでいると「気にすんな」と卓井が肩を叩いてきた。うるせえよ。
「風呂めんどくさいもんな。ゴミ袋どこにある? 場所教えて」
「キッチンの、シンク下んとこ」
「おっけい」
 場所を教えて十秒くらい、四十五リットルの可燃ゴミ袋を広げながらそいつは戻ってきた。そして部屋に散らばったゴミを、分別関係なくすべてそれに突っ込む。
「……えすでぃーじーず、って知ってる?」
「さすてなぶる、でべろっぷめんと、ごーるず、だっけ。eラーニングでやった」
「やったな。……や、言葉の意味ではなく」
「いいんだよ、長い目で見たら分別は大事だけど、短期的に考えるとこの部屋の公衆衛生の方が大事だし。俺は比較的気持ち良く飯が食いたい」
「じゃあ帰りなよ……」
 公衆衛生の観点でも精神衛生上でもまったくよろしくない部屋だ。至るところにごみが散らばり、いつから積もっていたか分からないほこりが宙を舞っている。窓はくもり、発生源はおれと思わしき異臭もする。そして家主は絶賛休職中。
 それなのに卓井という男はどうしてもここで飯が食いたいと駄々をこね、ゴミをまとめることに加えて掃除機までかけ出した。掃除機が通過した箇所から元の赤茶色に戻るフローリングを見て、少しだけ胸がすっとする。食欲が回復するほどではないが。
 そうして粗方片付いたおれの部屋を見た卓井は鼻を二、三回ひくつかせ、おれを風呂場へ連行したのであった。いやそこまでする?
「比較的気持ち良く飯を食いたいから、そりゃここまでするよ」
「何回も言ってるけど、じゃあ帰りなって……」
「あ、レンジ使うから。ドライヤー使うなよ?」
「おれの家だぞ……」
 何故家主よりもブレイカー事情に気を遣うのか、果てしなく謎だと思ったが少し考えれば単純明快な事実に気付く。ちゃんと温まった弁当が食べたいから、それに尽きる。なんてクレイジー、いやこいつは元々飯に関してはクレイジーな人間だ。食べる量も、あの細身のどこに入っているのか、体内でテトリスみたいになってるのか、と勘繰るくらいに食うし何でも食べる。食への探求心も旺盛で、一時期「美味しいオムライスの研究のため」とか言って三食一か月間オムライスだったこともあった。
 マジで意味分からん奴だ。
 そこが、かなり面白くて好きなのだけど。好きなのだけど、今じゃない、と思う。

(後略)