逃避行

「うおらー!!!!」
 汗だくの青年が唾を飛ばして大声で叫ぶ。大きく振られた金属バットが軟式球のすぐ下をかすめる。ぱすん、と球がネットに当たるマヌケな音。空振りしたバットを地面に放り出して「ぐわー!」と叫んで頭を抱える青年。その明るく染められた頭部のすぐ前を、次に放られた球が無慈悲に通り抜ける。
「……朽橋(クチバシ) 、」
 緑色の防球ネットで遮られた隣の打席から、黒いヘルメットをかぶった黒髪長身の青年が小声でたずねる。ピッチングマシンから放たれる80km/hのストレートを、直立不動、静かな目で見送りながら。
「今日、新しい釣り竿買いに行って駅前のラーメン食おうぜ、って、言ってなかったっけ」
 朽橋と呼ばれた青年は拾い上げたバットをゴルフクラブのように下向きに構え、足元に転がるボールを前方に飛ばしてから、俊敏に構え直し、小気味よい音を立てて次の球を打ち返して、
「いーから打て!! 心のままに!」
 肩で大きく息をしながら甲高く叫んで、ぐるりと回したバットの先で前方を指さす。穴だらけの防球ネットの一番上にぶら下がる、ひしゃげた『ホームラン!』の看板。
 二人の後ろに置かれたベンチで、地元球団のキャップをかぶった土色の顔の老人が、カップ酒を美味そうにあおっている。
「あークソ、前に飛ばなくなってる」
 バットをビールケースに放り込んだ朽橋が、Tシャツの襟元を引き延ばして汗をぬぐいながら、緑色のネットをくぐってブースから出る。汗ばんだ額に、明るく染めた前髪がへばりついている。
「よし一砂(カズサ) 、もっかいだ!」
 励ますようにそう言うと、隣の機械に勝手に小銭を入れはじめる。楽しげなその様子を黒い瞳でじっと見てから、黒髪長身の青年は前方に視線を戻し、飛んできた球を軽快な音で、バント。
「は?!」
 途端、目の色を変えた朽橋が防球ネットにしがみつく。
バッセン(こんなとこ) でバントすんな! 振れー!!! とにかく振れ!」
 朽橋の叫びに背中を押されるように、言われた通りに振りぬかれた一砂のバットが——ものすごい速さで空振りする。勢い余った貸出ヘルメットが顔の前までぐるんと回る。情けない猫背でのそりと振り向く長身に、近くの鉄骨柱をばしばしと叩いて大声で笑う朽橋。衝撃で柱から剥げたペンキが、コンクリートの地面にぱらぱらと落ちる。
「うるせーぞ朽橋酒店」
 ベンチの老人が、しわがれた声で低く言う。
「黙らせろ車屋」
 視界を覆うヘルメットを正面に戻した一砂は、小さいころから顔なじみの近所の老人に向かって、黙って肩をすくめる。
「はいはい、悪かったね三刀屋商店。あー腹いてぇ」
 目尻に浮かんだ涙をぬぐいながら、朽橋が老人の隣にどっかりと座る。錆びたベンチが大きく軋む。
「で今日はいくら負けたの」
 競馬新聞を無邪気に覗き込んでくる明るい色の頭部を、赤ペンを持ったしわだらけの手が邪魔そうに押しのける。べらべらと楽しげにしゃべりつづける青年と、黙ってそれを聞いている無表情の青年とを見比べて、飲み終えたカップを足元に置いた老人は、白い眉を下げて酒臭い息を吐く。
「お前らホント、足して二で割らんまま大人になっちまったなぁ」
 なにそれ、と笑った朽橋の指が、一番奥の打席を指さす。部活帰りの高校球児が黙々と剛速球を打ち返し続けている。
「一砂ぁ、現役四番のフォームをまねてみなよ、オレのは自己流だからさぁ」
 言った途端、皆の視線の先で甲高い打撃音。振りぬかれたバットの銀色が水銀灯の光を反射する。きれいな放物線を描いた球が『ホームラン!』の看板に当たる。古びたスピーカーから鳴るマヌケなファンファーレ。おおー、と周囲から野太い歓声。まばらな拍手。
「先輩ってなんでそのフォームで打ててるか、ほんとうに謎ですよね」
 坊主頭の高校球児が変声期特有のかすれ声でそう言って、防球ネットをくぐって出てきて、よく練習や応援に駆けつけてくれる人一倍賑やかなOBに向かって「ちわす」と頭を下げる。
「それなー、スポーツ科学のひとにも同じこと言われたわ」と笑う朽橋。
 学校名の入ったカバンから残り少ないペットボトル飲料を取り出して飲み干す。その、まだ幼さの残る日焼け顔を見上げて、赤ら顔の老人が「あっ」と声をあげた。
「お前か、なんだあの送球!」
 めんどくさそうな顔で、深いため息をつく高校球児。
「このへんの大人、みんなしてそればっか言う……」
 その様子をけらけら笑うOBの青年。
「あ、そうだ。一砂さ、お前ピッチングマシンって直せる?」
 黙々とバントを繰り返していた一砂が、幼馴染みの問いに振り返り、正面でガタゴトと音を立てる錆びた箱を指さす。
「そう、ああいうの」うなずく朽橋。
「えっ」
 高校球児がものすごくうれしそうな顔をする。
 バットを構えたままの無表情な機械系エンジニアが、何事か思案するように箱をじっと見つめる。
「壊れ方による」
「てことで今度ガッコいくから」
「あざす!」
 目の前で深く下がった頭の、刈りたての坊主頭を、朽橋の手がぞりぞりと撫でる。
「お礼にアイツになんかアドバイスしてやって、打ち方。見ての通り初心者だから」
「ああはい、えーと、」
 高校球児がバントばかりの打席に駆け寄る。
 二人のやりとりを眺めながら、朽橋は、サンダルをつっかけた両足を手持ち無沙汰に揺らす。右足の爪先から滑り落ちたボロボロのサンダルが、コンクリートの床にぺちんと着地する。すぐ隣で老人が新聞を折りたたむ音にちらと目をやり。
「おっちゃん、先週の合宿見に来なかったろ。来週の練習試合は行く?」
「平日だろ。働け」
「それが自営業のいーとこだよ」
「商売ナメんじゃねぇ」
 二杯目のカップ酒を空けながら老人が不愛想に返す。ベンチに並ぶ二人の話題が、地元球団の野球談議から商工会の悪口に移った直後——
「お」
打席から小気味よい打撃音。老人の手元で酒がこぼれる。朽橋がにぎやかにしゃべりながら振り向く。
 一砂の手元から放たれた軟式球が、きれいな放物線を描き、『ホームラン!』の看板に当たった。古びたスピーカーからマヌケなファンファーレが鳴る。
 ベンチから立ち上がった朽橋が、やかましい歓声を上げながら打席に駆け寄り、高校球児の背中をばしばしと叩く。それから防球ネットを勢いよく跳ねのけて、バットを置いたばかりの一砂の腕をがっちりと掴んだ。
「次行くぞ次!」
「次?」

(後略)